直感、というか感情と理屈がうまく噛み合わないと、どうしていいか分からなくなる。
 どちらを優先させればいいのか、こちらを取るとあちらで角が立つみたいな。どちらにせよ私の内部の話には変わりないのだけれども。
 取るに足らないほんの些細なことなのに、それでモヤモヤが続いてる。

 突然ですが、私はこの1年ですっかり2.5次元舞台にはまった。最近の生きる糧となっていて、観劇したりコンスタントに円盤買ったり雑誌を買ったりしている。そうしているうちに推しの俳優とか好きな作品とかも諸々出来てくる訳で。

 その出来事は推しが出ていた動画配信であった。その中で推してはいないのだけれども、好きな作品に出演していた俳優さんお二人が「ロミオとジュリエット」の内容をよく知らない、と話していた。主に舞台で活躍していて、そこそこ売れている俳優のお二人が。
 私はよくわからないけれども衝撃をうけた。舞台俳優で「ロミオとジュリエット」を知らないってどういうことだ。シェイクスピアの超有名作品、悲劇といったら必ず名前が上がる代表作。作品を読まなくても、せめておおまかなあらすじくらい知っててほしい。というかロミオとジュリエットを知らないで舞台俳優になれるんだ……と驚いた。画面を見ながら真顔で「えっ」て声に出していた。
 これで、ありえない!って切り捨てられたらきっと楽だったんだろう。そうはいかなかった。ショックを受けてから一拍おいて、理屈の部分が顔を出してきた。

 別に古典作品を知らないからといって必ずしもだめな俳優だとは言えないのではないのか?知識も大事だが俳優に重要なのは演技力。舞台上で素晴らしい演技をして、よりよい作品を作り上げられるのならば、これは関係のないことなのではないか?
 そもそも勝手に俳優というカテゴリに枠を決めて期待してそれからはみ出たら落胆するなんて、傲慢だと思う。

極めつけは
 舞台俳優にロミオとジュリエットといった演劇の古典作品の知識を求めるならば、万葉集古今集新古今集といった和歌の知識をもたないと歌人といえない、というのと同義、という理屈。

 和歌と現代短歌は違うもの。古典の知識はあるに越したことはないけれども、ないからといって、そのことがその歌人の作品の評価に関わることはたぶんない。私はそう思っているし、少なくとも私の周りの短歌に関わる人はそういう価値観だと思っている。
 もしも、伝統的な和歌を知らないことだけで作品に関係なく歌人が批判されるようなことがあったらきっと私は怒りがわく。
 それなのにも関わらず、俳優の二人が古典作品を知らないことに大きな衝撃を受けた。
 何百年前の作品と2.5次元舞台は違うもの。古典の知識はあるに越したことはないけれども、ないからといってその人の演技や作品への評価が変わるわけがない。

なのに、ショックを受けてしまった。

「えっ」というくらいの衝撃を受けたのは事実。知識の有無は作品への評価に関与しないと思っているのもまた事実。この2つをどう処理するべきか。

モヤモヤする。

 一人で理想像を作って現実がそれと異なることを知って、勝手に落ち込んだだけ。しかも立場が変わると、同じように理想を作って勝手に落ち込む人を否定する。全くもって両立しえない。どうしたものか。

着地点が見えないまま、気持ちは宙に浮いている。


とりあえず、サロメ古今和歌集を読みます。

短歌

短歌関係の人と話していると、好きな歌人の話題になることがある。
私はあまり歌集や短歌誌をたくさん読まないし(買っても積ん読が増えていく)、結社にも入っていなし、歌会にもそんなに参加できたりしていない。正直、名前は知っていてもどんな歌を詠んでいるのかわからない歌人も多い。一応、高校から続けているけれども、短歌についてはまだまだ浅学な私は、選べるほど歌人を知っているとは言えない。だから、少し戸惑う。どう答えようかと。
そもそも歌人の定義がわからない。歌集を出している人、賞をとった人、同人誌を出している人、短歌を詠む人、どれでいけばいいのか。
まぁきっとこの場合は、歌集を出したり、賞をとっていたり、そこそこ有名な同人誌の同人だったりする短歌を詠む人のことをさすのだろう。

ただし、もしも、もしも、私の知っている中で短歌を詠んだことがある人という括りでよいのならば、好きな歌人は、この人の短歌が好きだという人は、高校の文芸部の先輩の二人を選ぶ。

担任の勧めで高一の中途半端な時期に文芸部に入った私は、その二人の短歌を知って短歌を始めようと思った。現代短歌ならばその前にサラダ記念日は読んでいたはずなのに、衝撃を受けた。こんな歌を詠めるようになりたいと思った。言葉の選び方が世界観が好きで、もっともっとこの人たちの歌を読みたいと思った。それは今でも変わらない。めっちゃ読みたい。
歌集を出版しているわけでもないし、有名な短歌誌の新人賞をとった訳でもないお二人だけれども、私にとっては好きな歌人だ。
ただ、たぶん今は短歌を作ってないと思われる。すごく残念だけれど、人には人の事情や生活がある。それは仕方のないことでそしてよくあることで。

高校で、または大学で、とてもいい歌を詠んだ人がその後、短歌に関わらなくなることは珍しくなくて。というか続ける人のほうが少ないのではないのだろうか。部外者がとやかくいうことではないけれども、それが少しだけ悔しい。

いつだったか、確か大学のときだったと思う。盛岡で小島ゆかりさんの短歌についての講演をきく機会があった。盛岡ということでもちろん短歌甲子園についての話もあり、そこでの短歌を紹介していた。その中で一首、私も知っている歌があった。私の知らない何代か前の文芸部の先輩が詠んだもの。それこそ件の先輩が短歌甲子園に出たときに話題にしてた気がする。ゆかりさんはその歌をとても褒めていた。それを聞いていて、私は何故か悔しくて、悲しくて仕方なかったのを覚えている。
たぶんその詠み人である顔も知らない先輩は短歌をやめているのだ。いくら配布された資料に短歌と高校名と作者名を載せていたとしても、きっとその人には届かない。
確かにその歌はその回の大会で賞をとっていた。これはただの私の予想でしかないのだけれども、その人にとってこの短歌は、「その大会で賞をとった一首」でしかない。もちろん思い入れとか色々あるとは思うけれども。少なくとも、大会から何年かたってからもこうしてゆかりさんに取り上げられた一首であることを、今この場で大勢の前でよい短歌と広められた一首であるということを、作者はきっと知らないのだ。

とてもやるせない。

今ここで、こんなに褒められているのに、こんなに大勢の人に紹介されているのに。そのことを詠み人に伝える術がない。
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
もしも、細々とでも続けていたら、何だかんだ短歌の世界は狭いからどこかで話す機会があったかもしれないのに、なんて考えてしまう。

他人の人生に口を挟めないし、そんな立場でもなければ権利もない。
それでも何かのきっかけで、一首だけでも新しい歌をどこかで発表するかもしれない。それを私は東北の片隅でひっそりと待ち望んでいたりする。私が短歌を続けている限り、もしも短歌を再開したならば、そのことをきっとどこかで知れると思うので。

最近

4月になって、外出自粛ってなって、世間は静かに、でも人の心は慌ただしくなっているらしい。みんな怒ったり嘆いたりしてて、すごいと思う。どうせ人はいつか死ぬのに。
私は強欲でけちだから、自分の時間も感情もできるだけ自分の楽しいことに使いたい。有限なので。それで行き詰まったら、それはそれ。最終的におしまいにすればいい、なんてずっと考えている。無責任って言われそうだけど。
自粛っていわれても、3月末あたりでふきのとうがぽつぽつ見えはじめて、今週はもう梅が見頃になっていた。普通に春が来てる。花粉は辛いし。そして私の生活はほとんど変わらないので、特に困ることもない。むしろ、休日はずっと家に引きこもるのに前みたいな罪悪感がなくなって、少し気が楽になった。
平日は朝起きて、準備して、コンビニでお昼を買って、電車に乗って出勤。定時で終わって、電車に乗って帰宅して、ご飯食べて、ゲームして、寝る。
休日はゲームして、動画みて、pixiv読んで、少し家事をして、ご飯を食べて、土日のどちらかだけ食料を買いに行く。今週も、先月も、1年前も特に変わってない。いや、確かに1年前よりも本やDVDやゲームが増えた分、引きこもりに拍車がかかっているかもしれない。おうち楽しい。おうち万歳。
あ、でも、外のご飯が食べられないのは少し残念な気がする。そうは言っても、外食は月に1、2回くらいだから全然我慢できるのだけれども。そう考えたら、特に不満なんてないのかもしれない。
もともと、この土地に知り合いは多くはなくて、短歌関係の人くらいしか休日に会うこともなかったのだし。
以前のようにSNSでみんなが休日に誰かと楽しく過ごしているのをみて、本当は一人でも楽しく過ごしてたのに、自分の交遊関係の狭さとかを思い知って惨めなるようなことがなくなって、すこぶる心が平和だ。
この状態の方が精神的に楽なんて、本当にひねくれているのだと思う。さみしさをどっかに置き忘れたのかもしれない。
好きな人たちと会うのは楽しい。ただ、今までの生活で、頻繁に会ったりしていなかったから。少なくとも今は、SNSで近況がわかってたまに声が聞けたりしたらそれで十分だし、それに慣れている。

ネイル

数ヵ月ぶりに爪に色を乗せた。

確かこの前は横浜に行く直前に慌てて塗っていた気がする。紺色を。
ラメもパールもホログラムも入っていない濃い紺一色を雑に両手の爪に塗った。
ベースもトップコートもしない。透明感やツヤ感とは遠くて、適当な油性ペンで爪を塗ったみたいな出来だった。しかも所々はみ出てるしムラにもなっていた。
まるでV系みたいな黒に近い紺色の爪にして、ガタガタな出来映え。
まあいいかって、いいながらも、やっぱりなんか違うよな、ってどこかで思ったような気がする。確か夜行バスの中で。

今回は薄い青紫色のマニキュアにした。
資生堂のピコのらしい。

ここ最近SNSで話題らしいけれども、全くそんなことは知らなかった。
近頃は流行のなかでもはじっこ、すみのすみの話題を辛うじて知るくらいで精一杯だ。ちなみに一番人気な色は売り切れだった。

私はこの菫や藤の花のような白っぽい紫色のほうが気に入ったので、それでよかった気がする。人気なものをおすすめされると断りにくいから。そしてそれを試して似合わなかったら、大多数の感覚から外れている個体だと認識せざるを得なくなるから。

ほんのすこしお酒が入った状態で、お風呂上がりに両爪を塗る。
あ、これ57577っぽい。無意識だった。字余りだけど、許容範囲。
右の親指から塗っていた。なんか難しいなって思ったら、ホログラムが入っているみたいだった。ホログラムと細かいラメ。とてもかわいい。色も質感も好み。

二度塗りして、全体を見る。綺麗な色。
ただし、下手だ。横にも上下にもはみ出ている。ムラもある。相変わらず不器用なことはかわりはない。化粧品カウンターのお姉さんや、お客さんのしているような出来には遠く及ばない。
それでも、とても綺麗でかわいいと思う。
好きな色で、きらきらしていて、好ましい。
童話にでてくるとしたら、夜なのに明るく描かれている星空の色。人間の一生で例えたら、高校一年の5月、放課後に音楽室前を通りかかったときみたいな色。

24時間後にはもとに戻っているけれども。

でこぼこな綺麗をもう少しだけ味わっていてもいいだろうか。


今度ドラッグストアに行くときには、トップコートを買おうと思う。