短歌

短歌関係の人と話していると、好きな歌人の話題になることがある。
私はあまり歌集や短歌誌をたくさん読まないし(買っても積ん読が増えていく)、結社にも入っていなし、歌会にもそんなに参加できたりしていない。正直、名前は知っていてもどんな歌を詠んでいるのかわからない歌人も多い。一応、高校から続けているけれども、短歌についてはまだまだ浅学な私は、選べるほど歌人を知っているとは言えない。だから、少し戸惑う。どう答えようかと。
そもそも歌人の定義がわからない。歌集を出している人、賞をとった人、同人誌を出している人、短歌を詠む人、どれでいけばいいのか。
まぁきっとこの場合は、歌集を出したり、賞をとっていたり、そこそこ有名な同人誌の同人だったりする短歌を詠む人のことをさすのだろう。

ただし、もしも、もしも、私の知っている中で短歌を詠んだことがある人という括りでよいのならば、好きな歌人は、この人の短歌が好きだという人は、高校の文芸部の先輩の二人を選ぶ。

担任の勧めで高一の中途半端な時期に文芸部に入った私は、その二人の短歌を知って短歌を始めようと思った。現代短歌ならばその前にサラダ記念日は読んでいたはずなのに、衝撃を受けた。こんな歌を詠めるようになりたいと思った。言葉の選び方が世界観が好きで、もっともっとこの人たちの歌を読みたいと思った。それは今でも変わらない。めっちゃ読みたい。
歌集を出版しているわけでもないし、有名な短歌誌の新人賞をとった訳でもないお二人だけれども、私にとっては好きな歌人だ。
ただ、たぶん今は短歌を作ってないと思われる。すごく残念だけれど、人には人の事情や生活がある。それは仕方のないことでそしてよくあることで。

高校で、または大学で、とてもいい歌を詠んだ人がその後、短歌に関わらなくなることは珍しくなくて。というか続ける人のほうが少ないのではないのだろうか。部外者がとやかくいうことではないけれども、それが少しだけ悔しい。

いつだったか、確か大学のときだったと思う。盛岡で小島ゆかりさんの短歌についての講演をきく機会があった。盛岡ということでもちろん短歌甲子園についての話もあり、そこでの短歌を紹介していた。その中で一首、私も知っている歌があった。私の知らない何代か前の文芸部の先輩が詠んだもの。それこそ件の先輩が短歌甲子園に出たときに話題にしてた気がする。ゆかりさんはその歌をとても褒めていた。それを聞いていて、私は何故か悔しくて、悲しくて仕方なかったのを覚えている。
たぶんその詠み人である顔も知らない先輩は短歌をやめているのだ。いくら配布された資料に短歌と高校名と作者名を載せていたとしても、きっとその人には届かない。
確かにその歌はその回の大会で賞をとっていた。これはただの私の予想でしかないのだけれども、その人にとってこの短歌は、「その大会で賞をとった一首」でしかない。もちろん思い入れとか色々あるとは思うけれども。少なくとも、大会から何年かたってからもこうしてゆかりさんに取り上げられた一首であることを、今この場で大勢の前でよい短歌と広められた一首であるということを、作者はきっと知らないのだ。

とてもやるせない。

今ここで、こんなに褒められているのに、こんなに大勢の人に紹介されているのに。そのことを詠み人に伝える術がない。
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
もしも、細々とでも続けていたら、何だかんだ短歌の世界は狭いからどこかで話す機会があったかもしれないのに、なんて考えてしまう。

他人の人生に口を挟めないし、そんな立場でもなければ権利もない。
それでも何かのきっかけで、一首だけでも新しい歌をどこかで発表するかもしれない。それを私は東北の片隅でひっそりと待ち望んでいたりする。私が短歌を続けている限り、もしも短歌を再開したならば、そのことをきっとどこかで知れると思うので。